フリーコーヒーと贈与経済

「売るものとしてではなく、贈るものとして僕はコーヒーを作る」

自転車冒険家、西川 昌徳さん。
最近は、「フリーコーヒー」といって街角に立ち、そこで出会った人々に淹れたてのコーヒーを無料で振る舞う、という仕事をしている。

– 自転車で冒険するだけで、食べていけるの?
– 売り上げのないコーヒー配りを、仕事って言えるの?

「仕事=お金を稼ぐこと」としか考えられない古い頭の私達はさぞ訝しく思うことだろう。

仕事とは本来、「事に仕える」こと。

そうであるならば、彼は全力で事に仕えている。

新しい生き方を実験中なのは彼だけど、試されているのは私たち古い社会の側。
彼は私たちに「考える機会」と、「変わるチャンス」を与えてくれる。

さて、冒頭の彼の言葉が何を意味するか、そろそろピンとくる向きもおありだろう。

生活のためにお金を稼ぐことを一切せず、資本主義社会のシステムから脱出して贈与経済を回す生き方を彼はこの数年間、実験中なのである(と、私は理解している)。

彼のフリーコーヒーは海を渡り、圧政下で苦しむ動乱の香港や韓国でも多くの人々に幸福を届けた。
彼の生き方を知り、彼と対話をすることで、香港の人々も、韓国の人々も、「日本人はなんて素晴らしいんだ」と感激した(素晴らしいのは日本人じゃなくて彼だけどね)。
あの時、海の向こうから届いたFBへの書き込み数、凄かったね。
どれほど彼の地の人々が彼に感謝しているかがリアルタイムで伝わってきた。

見も知らぬ人にフリーコーヒーを振る舞うと、まず小さな好意が生まれる(時には疑心の後に)。
対話をすると、さらにそこに「信用」「感謝」が生まれ、それまで存在しなかった人との繋がりが生まれる。
感謝の気持ちは増幅し、西川さん自身に返す人もいるし、一期一会の出会いであればその感謝は「次に会った人にお返ししよう」という風に感謝は伝播していく。 

ものの贈りものを頂くと、一般的には半返しですよね。
でも感謝の気持ちは、受け取ったもの以上で返したくなるものです。
そして受け取ると、また返したくなる、という連鎖が生まれる。
それが贈与経済。

彼が広げた友達のネットワークは広く、厚く、強く、豊かで、万が一真っ逆さまに落っこちるようなことがあっても確実にふんわりと心地良く受け止めてくれる、文字通りの安全ネットだ。
仮に私たちが無一文になった時、そんな心強い安心安全なネットを持っているだろうか?
信用は、お金で買えるものではない。
ましてや、たった一杯のコーヒー代で。
だから彼は「コーヒーを売りものではない、贈りものだ」と言う。
西川さんは「成熟した市民」だ。

「成熟した市民」って、内田樹が「贈与経済」論で使った言葉なんですけどね(かなり古い)↓
http://blog.tatsuru.com/2012/04/08_1404.html

"贈与がうまくゆかないのは、贈与経済そのものが荒唐無稽な制度だからではありません。そうではなくて、贈れるだけの資産をもっている人たちが、それにもかかわらず贈与を行うだけの市民的成熟に達していないからです。適切なる「贈る相手」をきちんとリストアップできていないからです。パスを送ったときに、「ありがとう」とにっこり笑って言ってくれて、気まずさも、こだわりも残らないような人間的なネットワークをあらかじめ自分の周囲に構築できていないからです。貧乏なとき、困っているとき、落ち込んでいるときに、相互支援のネットワークの中で、助けたり、助けられたりということを繰り返し経験してきた人間だけがそのようなネットワークを持つことができる。"

西川さんは、まさに内田樹が言うところの稀なる「成熟した市民」であり、それは新しい時代を切り拓く「洗練された」人間だということである。

資本主義経済社会では、お金を稼ぐことに長けている人が評価される。
贈与経済社会では、見返りなく他者に与え続ける人が評価される。

貴方はどちらの社会が良いですか?

対価を求めない。
ギブ&テイクではなく、ギブ&ギブとひたすら贈る彼は、間違いなくこれからの社会を変えていく「新しい人」だ。

社会の問題を自分ごととして捉え、自分の生き方と向き合う機会を、彼は私たちに美味しい一杯のコーヒーと共に提供してくれるのです。

西川昌徳
https://www.earthride.jp/freecoffee/coffee/

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2021/5/24