この世は贈与でできている

国際女性デーに寄せて、可愛らしい特別なミモザが添えられた贈りものを頂く。
手仕事の美しさよ。

私が大好きな、小さなもの。
そして、丁寧にゆっくりと作られたもの。
ひと針ひと針、心が込められて完成するもの。

こんな素敵なものを頂いて、お返ししなくちゃ。
と、反射的に考える私を止めたのは、

 

添えられた、”Thank you”の言葉。

人の好意や愛をいつも受け取るばかりの人生だなと、なんとなく引け目を感じていた私に、「いやいや、あなたも与えてきた結果ですよ」と言われたようで、自分への肯定感がようやく降りてくる。

自分を肯定しないことは、すなわち他者を肯定しないこと。

受け取る行為そのものも、また贈与なのである。

"贈与の受取人は、その存在自体が、差出人に「使命」を逆向きに贈与する。…贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える。"

私という存在は全て誰かからの贈与で成り立っており、そのことで私も誰かに贈与を行っている。
人の価値はその社会的な資質になんら関係なく、存在することそのものが価値なのである。
全ての人に生きている価値がある、という一見綺麗な言葉の本当の意味がここにある。

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・モノは、誰かから贈られた瞬間に、この世界にたった一つしかない特別な存在へと変貌します。贈与とは、モノを「モノではないもの」へと変貌させる創造的行為に他ならないのです。だから僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができないのです。
・信頼は贈与の中からしか生じないということです。だとすると、交換的な人間関係しか構築してこなかった人は、そのあとどうなるのか?周囲に贈与的な人がおらず、また自分自身が贈与主体でない場合、僕らは簡単に孤立してしまいます。
・僕らが困窮し、思わず誰かに助けを求めるとき、交換するものを持ち合わせていないからこそ「助けて」と声にするのではないでしょうか。…交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原則的にできなくなる。
・誰かから呼ばれること。誰かの声を聴くこと。これが天職の原義です。もちろん、西洋の考えでは、その声の主は神です。ですが、その声には神ならぬ普通の誰かからの「助けて」という声も含まれているのではないでしょうか。…交換の論理の手札であるインセンティブとサンクションは、その他者からの声、要請を無効にしてしまいます。声を聴くことができなくなってしまったら、責任の自覚、誰かから付託されているという感覚が消失してしまいます。だから僕らは、金銭を目的に仕事をしてしまったら、仕事の「やりがい」からどんどん遠ざかってしまうのです。仕事のやりがいは、その仕事の贈与性によって規定されるのです。
・(贈与が)宛先に届くことを待つ、届くことに賭けるとは、つまり祈るということです。僕らは交換の論理に慣れ親しみ過ぎたことで、贈与に祈りを込めることができなくなってしまった。前に「努力が報われる/報われない」という発想自体がすでに交換の論理に根差していると述べました。努力に結果が伴うかは不確定で、やれるだけのことをやったのなら、あとは祈るだけです。
・贈与者は名乗ってはなりません。名乗ってしまったら、お返しがきてしまいます。贈与はそれが贈与だと知られない場合に限り、正しく贈与となります。しかし、ずっと気づかれることのない贈与は、そもそも贈与として存在しません。だから、贈与はいつかどこかで「気づいてもらう」必要があります。あれは贈与だったと過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名にふさわしい。だから、僕らは受取人としての想像力を発揮するしかない。
・何も起こらない日常を僕らが享受している事実。そして、不安定つり合いに置かれたボールが、今日も同じ場所に留まっていることは、達成として祝福されるべき事態である、と小松左京は教えてくれるのです。
・アンサング・ヒーローは、自分が差し出す贈与が気づかれなくても構わないと思うことができる。それどころか、気づかれないままであってほしいとさえ思っているのです。なぜなら、受取人がそれが贈与だと気づかないということは、社会が平和であることの何よりの証拠だからです。自身の贈与によって災厄を未然に防げたからこそ、受取人がそれに気づかないのです。…だから、僕らが気づいていないだけで、この社会には無数のアンサング・ヒーローが存在しているのです。その純然たる事実に気づいた人だけが、その前任のアンサング・ヒーローから贈与のプレヒストリーを与えられ、自身がふたたびアンサング・ヒーローの使命を果たしていくのです。
・贈与の受取人は、その存在自体が、差出人に「使命」を逆向きに贈与する。…贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える。…宛先がなければ、手紙を書くことはできません。そして僕らは手紙を書かずには生きていけません。「宛先としてただそこに存在する」という贈与の次元があるのです。僕らは、ただ存在するだけで他者に贈与することができる。受け取っているということを自覚していなくても、その存在自体がそこを宛先とする差出人の存在を、強力に、全面的に肯定する。もはや一体どちらがどちらに贈与しているのか分からなくなり、「受取人」と「差出人」が刹那のうちに無限回入れ替わるような事態があります。差出人と受取人が一つに溶け合ってしまうと言ってもいい。ここではもはや、「与える/受け取る」という階層差はなくなり、並列的な関係へと変わります。…だから贈与は与え合うのではなく、受け取り合うものなのです。
・手に入れた知識や知見そのものが贈与であることに気づき、そしてその知見から世界を眺めたとき、いかに世界が贈与に満ちているかを悟った人を、教養ある人と呼ぶのです。

ー 近内悠太「世界は贈与でできている」より